「皇帝と皇后」の夢の乖離とそれぞれの薔薇が象徴するもの『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』感想①




雪組公演再開おめでとうございます!

こんにちは、はぴごろもです。

東京宝塚劇場で雪組公演が再開されましたね!

いろいろ思いはありますが(前回と前々回の記事に書いたので省略)、もうとにかく、おめでとうございます!雪組の皆様、スタッフ様、観客の皆様の無事をひたすら願います。

ユダヤ人の差別と貧困

いつもはだいたいですます調で書いていますが、今回は常体で書こうかなと思います。2月に観劇した時の感想です。

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人類の歴史は病気との闘いでもあった。

病気の広がりは医療の発達が遅れていたりセーフティネットが整備されていない国の民に甚大な被害をもたらす。コロナウイルスはスペイン風邪ほどではないが、広がりは大きく社会的影響は大きい。

昔から移民に対する警戒は、宗教的なものもあれば、こうした感染症の怖さにもある。「新大陸発見」の頃など侵略した人々がもたらした感染症により絶滅した民族もあった。見た目の違いももちろんあるが、概念や目に見えないものへの恐れは憎しみを増幅させるものだ。

アメリカへ渡った東欧系ユダヤ人は他の移民より半年遅れを取ってやってきた。

みな生き残りを掛けて新天地にやって来た中、あとからやってきた異民族はすでにアウェイの状態であった。しかもキリスト教徒からするとユダヤは激しい差別の対象。19世紀に入り差別は宗教的なものから民族的なものになってゆく。

長きに渡る差別の中であったがユダヤ人は優秀な者も多く、ノーベル賞受賞者70人近くおり、民族別には断トツである。今日ではITも強い。

金融・不動産・商取引でも手腕を発揮し、それがまた新たな妬みを生んだ。ちなみにキリスト教が宗教的理由で従事できなかった金融であるが、卑しい者の職業とされていた為だとも聞いたことがある。そうした中、世界最強とも言われる銀行系財閥を築き上げたロスチャイルド家はユダヤ人だ。

遡れば中世からヨーロッパで差別されており、居住地や職業選択の自由も厳しく制限された。それが逆に力を発揮する遠因になったとも考えられる。

またユダヤ教は古い宗教で厳しい戒律があるため、学習も必要であっただろう。民族的な気質もあるのかもしれない。

国を持たないユダヤ人がヨーロッパで激しい差別に遭い、新天地を求めてアメリカに移住した。

「ワンスアポンアタイムインアメリカ」ではその移民の子たちの舞台である。もうスタートがだいぶ遅れを取っている上に不利な状況。その子たちは貧困の上、ゴミ同然の扱いを受けている。誰しも差別と貧困からの脱却を求めてやまなかっただろう。

目指したものは

ヌードルス(望海風斗)とデボラ(真彩希帆)は少年時代、共に「皇帝」と「皇后」を夢見た。

王様と王妃ではない。小国の王など、強大な隣国があればすぐに属国となり傀儡政権となるだろう。雪組前作の「はばたけ黄金の翼よ」でもよく分かる。

目指したのは誰の支配下にも置かれない「王の中の王」たる皇帝とその后、皇后だ。

ヌードルスたちはチンピラ集団から始まり、手っ取り早く金を掴む手法を選んだ。それしか選択の余地がなかったとも言えなくもないが。すべてのカネ・モノを手中に収めることで貧困からの脱却を目指した。

一方、デボラは自分の実力を磨き上げショービジネスの頂点に立ち、王と結婚することを希望した。

つまり誰も敵わないくらいの実力にプラス権威を得るということ。おそらく最強ではないか。現況から抜け出せるように、またもとの地獄に戻らないよう犯罪という危ない道は渡らず、正攻法で積み上げていった。

 

ヌードルスは犯罪を犯しても、とにかく手に入れて捕まえておくこと。しかしマックスが最たるものだが、カネからも束縛されている。

デボラは実力と権威を得ることで自分自身を開放することが目的だ。

束縛と開放。

つまり、「皇帝と皇后」は同じ夢のようにみえて、「束縛と開放」という相容れない大きな乖離があったものと思う。

ヌードルスはマックス(彩風咲奈)ら仲間との絆もあり、犯罪行為に手を染めてゆく。歩む方向が違えば時間とともに距離は離れていくことは道理だ。

目指すところも違えばアプローチも違う。ヌードルスの愛は本物であったしデボラもまたヌードルスを愛していたが、結ばれることがないのは必定だった。

それぞれの薔薇が象徴するもの

第一幕ラストはヌードルスがデボラを手にすることができなかった場面。

少年時代に送ったささやかな薔薇のブーケは、まだまだ可愛いものだった。小さいながらも夢と希望が詰まったブーケだ。

時を経て、部屋中敷き詰められた薔薇に変わった。ヌードルスが犯罪により手に入れてきたカネで用意できたものだ。

ショービジネスの頂点へ、まだ道半ばのデボラには思いは届かない。正確に言えば思いは届いていたかもしれないが、実際に一緒になる選択はデボラにできなかったということだ。愛していながらそれをできないことをわかってほしいデボラとその気持ちがわからないヌードルス。

これまでヌードルスが手に入れてきたものはなんだったのか。積み上げてきたものはなんだったのか。愛を得ることができなければこれまでの走り回って手に入れてきたものは一体何だったのか。

ほんの少し前までヌードルスの瞳にはデボラが映っていたはずだが、もう瞳に映すべき対象はいない。そこにはすでに意味をなさない、目的を失った薔薇が無情に埋め尽くされているだけだ。その数え切れない薔薇では愛一つ手に入れられないのだ。

空虚な空間に散る薔薇が虚しい。どこを見つめるでもないヌードルスの目が、色のない重く沈む心が、散らされた薔薇に象徴されている。

 

第2幕ラストでは往年の歌姫、キャロル(朝美絢)が落としていった1本の薔薇をヌードルスが拾い上げるところがある。

かつての歌姫の手からポロリと落ち、忘れられた一本の薔薇。

それをかつて皇帝を目指したヌードルスが贈り、かつて皇后を目指したデボラが受け取る。

少しだけの幸せを感じながら。

人生、生きていれば糾える縄のごとくいろいろなことがある。

成功すれば幸せ、大金が入れば幸せ、愛する人も手に入ってハッピー、なんて単純なものではない。

人生とはそういうものだ、と。

いろいろあったけど少しの幸せを。愛した人との邂逅を。

一本の薔薇を介してヌードルスとデボラは流れた刻を静かに感じているようであった。

おわりに

プログラムの写真でも感じたが薔薇の存在は大きく象徴的だ。

薔薇は美しく、他の周りは暗い。社会の陰で暮らす若者たちが目指したものはたくさんの薔薇(実力、カネ、権威)だった。

しかしその薔薇にも光と陰があるのだ。花の一本一本に人生があり、花びらの一枚一枚にそれぞれのドラマがあるのかもしれない。

 

ああ、望海風斗さん真彩希帆さんそして雪組の演技素晴らしかったなあ(本記事の要旨)

タイトルに①と付けてしまったので②も書けたら書くかも…

お読みいただきありがとうございました。

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