いびつな形に美が
こんばんは、はぴごろもです。
宝塚の演出家:上田久美子先生の新聞に掲載されたことばが印象的でした。
現在、雪組『凱旋門』の演出に関わっている上田氏。
『凱旋門』のあらすじの表面だけをざっくり言ってしまえば、救いのない話にも感じる。
しかし、捉え方によってはもっと奥深いところに魅力があるのかもしれない。
死にそうに生きていた男の愚かな女との出会い。未来のない恋を経て再び人生を生きてゆく。
命を感じることで、死ぬことができた。
(私はまだ観ていないので情報や想像で書いています)
パッと見に美しいものだけでなく、普段だったら見逃してしまいそうなところにも美しさはあるのかもしれない。
これまで知りえなかった美は舞台を観ることによって初めて感じることも多いのではないか。
森羅万象、有形無形まだまだこの世は知らないことがほとんどであり、美しさという概念に至っては無限だろう。
上田氏は「共感」できるできないが批評になることに警鐘を鳴らす。
最新の感覚が最良ではないのは当然、むしろ今が「味音痴の時代」なのではと。
かなりビシッと言っています。
「今に合わない」「共感できない」。そのような批評が多くあったのですね。
私は作品の良し悪しはそこのポイントで思ったことはなかったので意外でした。
「ハリウッド風のジャンキーな娯楽」ってなんだろう?「ネット漬けで弱り切った想像力」とは?どんなことを言いたいのだろうか。
料理で例えるとジャンクフードと懐石料理だろうか。
濃い味の大手チェーン店ハンバーガーは美味しいが、それが基準になると繊細な料理が無味無臭に感じるかもしれない。
絵画で例えれば、こてこての油絵と大和絵のようなものだろうか。美しいが煌びやかで隙間なくこってり描かれた絵だけを見ていたら、日本の絵など隙間だらけで何も描いていないように見えるかも?
国歌で例えるとノリノリの軍艦マーチの国家は高揚に役に立つが、日本の君が代の繊細な旋律は独特な美しさがあるがお通夜みたいに聞こえるかもしれない。
均整のとれた西洋の食器は美しい。しかし、左右均等でない焼き色もそろっていない茶器に唯一無二の美があるかもしれない。
例えが的を得ていなかったらすみません。
何も西洋と日本の違いではなく、フランスならフランス人の心の移ろい、感情の激しさ、愚かしく時代に翻弄されても、いびつな形に美しさがある。
ひたすら本を読み、能や狂言、歌舞伎や文楽、インド映画や日本映画に触れてきた上田氏は『凱旋門』の脚本に多くの美を見い出しているようだ。
上田氏の耳に入った多くの批評に対して、観るもの側の微妙な美しさを感じとる力の衰えに怒りをもって寄稿したのではと感じました。
例え「時代に合わない」「共感できない」と多くの批評を受けても迎合せずに、描いていく。その孤高の演出家の上田氏がなんだか眩しく見える。彼女も『凱旋門』の主人公のようなのかもしれない。
私は『凱旋門』に専科の方が主演することが、ピラミッドの組制度を崩すことであり、美しくないと思いいろいろ書いてきました。しかし、作品の良し悪しとは別と考えています。
ただ、その感情が作品にも多分に影響する可能性は自分の中にも、そして多くの方に発生するのではとも思っていました。
作品はとばっちりを食った一面もあるのではないかと。
そうした中でも、どれだけ作品に入り込ませてもらえるか、と自分ならばどのように感じるのか逆に観るのが楽しみでもあります。
共感は心地よいがその有無は作品の良し悪しの重要なポイントではない。
古代現代未来、洋の東西を問わず良いものは良い。
主人公やヒロインに倫理観は求めない。光源氏なんか酷いものだが1000年経っても愛される。
公式HPに謝珠栄先生の、
「初演で主演を務めた轟悠と、トップスター・望海風斗を中心とした今の雪組が共演することの意義」
が書かれていますが、ウエクミ先生の言葉でも聞いてみたかった。
作品の批評は人それぞれですが、散りばめられた美しさをなるべく感じ取れるようにしたい。せっかく観るのならば。でも無理に感じようとせずにいたい。
作品がいいと思えない人のすべてが「味音痴」というのもまた違うだろう。
原作の魅力は、脚本、演出を経て膨らみそして最終的に主演を中心に出演者の表現に託される。
受け取る側の好みはあるから、当然、これはどうなの?という感想を持つこともありますが、自由な感じで有意義な批評ができる雰囲気も欲しい。
上田氏がいいと言うから即いいと思うのも盲目すぎるが、魅力を発信してくれるのは嬉しい。なるべくフラットな気持ちで素直に感じたい。
そんなこんなで上田久美子氏による新作にも是非期待したいと思います。(急にまとめ)
(新聞は京都新聞です)
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ころんさん、こんにちは。haruseと申します。
上田先生が、「凱旋門」について語られたという、タイトルに惹かれ、読ませて頂きました。
先生の言葉の紹介にとどまらず、とても深くて、素晴らしい考察をされていて、私も本当に考えさせられました。
普段から、私も単純に、「暗いからこの作品は、面白くない」というような決めつけは、してないつもりですが、仰る通り、演者への好みは人それぞれ。その感情が、舞台を見る目に影響するということは、あるかもしれません。
また、舞台はやはり生身の人間が演じ、生身の観客が受け取る、まさしく“生もの”
カンパニー全体の集中など、生で観てこそわかる空気感が、作品を大きく押し上げることもありますね。
自由に評論できる場があるのは決して悪い事ではないし、その多くの情報をどのように主査選択し、また、それらになるべく左右されない自分なりの観賞眼を磨いていかねばと、ころん様の記事を読んで、私も強く思いました。
haruse様
こんにちは。コメント頂き嬉しいです!ありがとうございます。
上田先生の言葉にいろいろと考えさせられまして今回の記事を書いてみました。
haruse様のおっしゃる通り、舞台はなまもの。一つとして同じ舞台はない、すべてが貴重なただ一つの舞台ですね。
情報が溢れる今だからこそ、柔軟でありながらも自分なりの鑑賞眼を磨きたい、本当にそう思います。
そうして舞台の楽しみ方が広がれば、また喜びですね。
嬉しいメッセージありがとうございました!
またお越し頂けると嬉しいです(^^)
「凱旋門」は上品、優雅、80年前のパリ。そして欧州や世界を驚怖に陥れるナチの膨張。ギリギリに生きる人々の必死さ。それが宝塚の万華鏡の舞台に見事に演出されていた。私はこの作品をのめり込んで観るというより、移りゆく世と、はかない人々の結びつきを客席から不安げに見届けていた。二回観劇しましたがまだ十分に把握し切れていないと思う。いつも宝塚は作品と舞台の深みを教えてくれる。何回も見届けてようやく分かるときが来る。「凱旋門」は私にとりこれからも幾度か観たくなる作品であった。上田先生ありがとうございます。
真実一路様
コメントして頂きありがとうございます。
私が観劇できるのは最短でライブビューイングなのですが、真実一路様のメッセージを心に留めて『凱旋門』に生きる人々を見届けたいと思いました。
観るたびに深みを教えてくれる作品はいつまでも心の奥に生きそうです。
ありがとうございました!