仮面を外すことについて(『ファントム』)




こんにちは、はぴごろもです。

2019年もカレンダーが1枚減り2月になりました。雪組『ファントム』も千秋楽が近づいてきました。

俗に言う二八(ニッパチ)の二の月ですが、宝塚は良いものが提供できれば、季節は売上にあまり関係ないかもと思っております。どうなのでしょう。

さて、そんな俗なことは置いておいて、望海風斗演じるファントムことエリックが仮面を外す場面を振り返ろうかなと思います。

ちなみに前回のブログでは「顔を見せて」の場面の感想を書きました。

エリックとクリスティーヌ~顔を見せての場面~(『ファントム』)

同じかい!

そう、前回書いたことによりもう少し思ったことがありましたので。

(前回同様、宝塚大劇場千秋楽ライブビューイングを見た時の感想になります。)


クリスティーヌ(真彩希帆)はエリックにすべてを受け入れる気満々で「顔を見せて」と迫った。

一方、エリックにとっては結果は同じでも「顔を見せる」というより「仮面を外す」という意識が大きかったのではと思う。

表面的な顔のアザを隠すための仮面。仮面としての役割はもちろん、自身の一番脆弱な部分を封印し、卑しい俗世界から自分の清らかな空間を穢されぬよう、戦うための鎧であったのかも。怪人たらしめる鎧としての仮面。

そして封印しているのは世間から疎まれた過去の記憶。数多のトラウマ。その心の奥の奥には大切な愛に溢れた思い出が詰まっている。

そんな意味が仮面を外すことにあったのなら、エリックは仮面を外して「はい、これがアザです」では到底済むはずもない。

神社の注連縄(しめなわ)ように不浄なものから聖域を守る結界のよう。

クリスティーヌからしたら、パンドラの箱を開けさせてしまったとも言えるかも。仮面を外す過程において、エリックは苦悶の表情を浮かべた。

パンドラの箱は悪や災いが詰まっている。すべての悪が放たれたあと、箱の底に残ったのは希望という。トラウマを解き放ち、過去に愛された記憶を一筋の希望の光として、エリックはクリスティーヌに引き寄せられていった。

しかし、そこで無情の悲鳴を聴くこととなる。

エリックは虚飾に満ちた醜悪な世との戦いには慣れていたかもしれないが、好いた女性を驚かせ傷つけてしまったという事実にさぞやエリックも動揺し傷ついただろう。クリスティーヌには打算がなく純粋だからより辛い。

「顔を見せる」ということは「仮面を外す」ことであり、エリックとクリスティーヌでその認識の違いが悲劇の場面になったのかも。

光と闇の落差は計り知れないほど大きい。雪と墨のように違うし、真っ白な雪に墨を落とせば黒く染まる。

仮面という蓋を開ければアザという見た目だけのものでなく、そこに深淵がある。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。

神話の時代から開けてははならないものを開けた者、見てはならないものを見た者は往々にしてそれに取り憑かれる。純粋ゆえに結果的に禁を犯すことになってしまったクリスティーヌ。のちにエリックに「僕のもの」と確信させる行動だった。

エリックの陽の目を見ることのない生活は健全な成長を阻害し、愛情の欠如はことさら成長を止め人格の歪みを生んでいた。悲劇は必至であるが、やはり救いは愛であり希望があること。

父キャリエールともそうだけど悲劇があれば癒しの効果も高まり、最期にはすべて昇華されたのかなあと。

そんなふうに思ったことです。

早く円盤も手に入れたいです。発売日は2月12日、望海さんのファントムのカッコ良すぎるジャケットです。痺れる!

 

 

また大千秋楽のライブビューイングが無事に見られれば感想を書きたいと思います。

お読みいただきありがとうございました。

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