ワンス宝塚②映画版ラストの笑顔の意味は?




雪組『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』の感想っぽいものの続きです。今回はなんとなく考察のようになり、映画版も含みます。

前回に書いた記事はこちらです。↓

ワンス宝塚:あれこれ感想つぶやき①

ということで、映画版でも永遠にして最大の謎とも言えるラストシーン:ヌードルスの極上の微笑みの意味について、よくわからないながらも考えてみよう!コーナーです。どっせーい!

どんな状況で阿片窟に出入りすることになったか

宝塚版、映画版ではそれぞれどのような場面で阿片窟に出入りしたか。

宝塚舞台版では、ヌードルスの警察へのタレコミにより結果的にマックスたち友人を失い(マックスは生き延びたがヌードルスからしたら失ったも同然)、またデボラへの愛も遂げられず、おそらく敵からも追われ、心身極限状態の時になってアヘンを使用している。

映画版ではラストシーンになるが、時間的には青年期、敵から追われている超どヤバイ真っ只中にある。阿片窟のベッドに横たわりながら新聞を手に取り、仲間の死亡を知る。普通なら正気を保つのも難しいだろう。

古代より鎮痛・鎮静作用で知られる

アヘンはケシ(芥子)から採れる麻薬の一種。鎮痛・鎮静作用があり古代から医薬品として知られている。乱用による健康被害があるので現代では条約や各国の法律で規制されているものである。

で、シンプルにアヘンの効能だけを考えれば、極限の精神状態にあるヌードルスを鎮静させる作用があったのではと想像するのだが、どうだろう。

実際どういった末路になるのか詳しく知らないので想像にすぎない。

真偽を知るすべはないが、ただ「すべてを受け入れる」精神状態になる、といった記事は見かけたことがある。

乱用が進めば、鎮静作用も大して得られず、もしかしたら逆に宝塚版のように幻覚が出る可能性もあるかもしれない。

宝塚版舞台の流れとしては笑顔より錯乱の方がいいだろう。満面の笑みではわからなさすぎ、というか妙な気持ちの悪さが残る。

錯乱すれば、ヌードルスの闇に堕ちている心象風景をドラマチックに描ける。そして(ちょっといやらしい話で申し訳ないが)亡くなった役者を再び出演させることができるし、ついでに薬物防止の啓発活動にもなるかもしれない。

そもそも薬物により苦痛を伴う幻覚を見るのならば、薬物に逃げないのでは、とも考える。それでもほんの一瞬の効果があるのならば、薬物に溺れてしまうほどヌードルスは疲弊してしまったのだろうか、とも想像する。

余白が大きいゆえにいろんな説がある

ずっと映画版のラストの笑顔の意味はなにか、を知りたくてたくググってもみた。どんなものがあるだろう。

・アヘンでアヘアヘ状態

わけもなく笑顔。ひょっとしてそうかも知れないし違うかも。よくわからないけどとりあえず怖いな。薬物ダメ、ゼッタイ!

・金(カネ)を総取りで嬉しい説

仲間の死の報に際し、これまでの稼ぎが山分けでなく、自分の総取りになるのだとふと気付く。そこからのヒャッハー!ウハウハだぜっ、という満面の笑顔。

でも「金(カネ)じゃね?」説は個人的にいまひとつしっくり来ず。追手にいつ命取られるか、という状況でお金どころではない。命あっての金。まず、生きた心地しない気がするのだが…

それとヌードルスの笑顔が屈託のない笑顔なのではと思う。もっと純粋な心から湧き出る笑顔のように感じる。それだから怖さもあるのだが。

・夢説

夢オチ…時系列が飛んでいるのでそれっぽい気がしないでもないけど…いや、これもなんか腑に落ちないような。「はい!すべて夢でしたー!おしまい!」だと、ちょっと安っぽさが漂ってしまわないか。

あるいは、夢と現の間の恍惚の世界ならば、そんな気がしないでもない。

人生とは実際のところ、覚醒と睡眠とによる、現実と夢の中を繰り返し生きるようなものだから。覚醒し続けることに、脳は耐えきれない。

現実には苦しいときも、夢の中ではその事実を忘れ、あり得ないような奇想天外な夢に笑っていることもあるものだ。

夢とうつつを行き来し、人は辛うじて発狂を逃れる。

俯瞰した人生を描く小池修一郎氏

映画版が「すべてが夢」説も否定はしないが、少なくとも宝塚版では、小池修一郎氏はそう捉えていないと思う。

なぜなら、主役のヌードルスやデボラはたしかに生きているから。ラストは少しの幸せを静かに噛み締めてこれからも生きていくであろうから。

映画版はアヘンの効果により、一切の精神的苦痛が消滅していると思う。解脱の域に近いと考える。

苦痛は消滅したが、ではなぜ笑顔に、と思うとやはり正直わからない。

少年期の頃のアゲアゲワクワクしたことを思い出したか、デボラとの愛の成就を妄想したか、はたまた自分の半生を俯瞰し極限状態そのものも楽しくなってしまったのか…

あるいは過去の悦びがブーケのようにギュッと束になり、思わず恍惚の笑みを浮かべたか…

いずれにしろ、一般的な善悪の常識や時間の概念をはるかに超えた状態であったことだろう。

名もなきギャングの人生を

わからないながらもせっかくなので、今のところの私の考えをば。

映画版は、

アヘンにより一切の苦痛から解放され、少年期に描いた憧憬に浸る。わずかの幸せに本人は大いに満足して微笑む。

その意味は…なんでしょうね?

 

 

余白かなあ。答えがないことが答え。まあほんとにわからないけど。

 

誰が見ても一見酷い人生は、本人にとって極限のようにみえて極限とは限らない。

大波も離れてみれば凪のよう。ミッドナイトジャングルも遠くから見れば素敵な夜景。ツワモノどもが夢のあと。

時代の波に乗り、そしてたゆたう名もなきギャングの人生は、時を経て現在に映し出された。

宝塚版ではそれがラストシーン、時間的にも壮年期に描かれたのではないかと感じる。壮絶な青年期も、人生を生きていけばある場面、場面の映像のように記憶される。大きな激動の波を鎮めるがごとく、静かに静かに生きるヌードルス。最後の複雑な表情にすべて表されているようだった。

宝塚版ヌードルスとデボラの精神的終着点

宝塚版、ヌードルスとは真反対のベクトル:つまり陽のあたる正攻法で生きてきたデボラは、彼と対極の人生を進み対極の地位に登りつた。しかし精神的にある意味では、奇しくも終着点は彼と同じになったとも言える。

人生どうなるかわからない、でも人生とはそういうものなのだ。

最後に、少し幸せで満たされる、という共通の価値観を得られたことが、壮年になった二人の愛が昇華されたようで嬉しかった。

かつて地獄の魔女として活躍し、今は昔の記憶を持たないキャロル、その彼女が地面に落として気が付かずに忘れ去られた、一本の薔薇。その薔薇をヌードルスは拾い上げて、かつてのハリウッド女優のデボラに手渡す。

そんな過去を忘れた人にさらに忘れ去られ地に落ちた薔薇だけれども、幸せに満たされる二人に、私も静かに満たされた。

 

皆様はどのように感じましたかねえ?

では、このあたりで〜。

お読みいただきありがとうございました。

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