日野原重明医師ってどんな人?
2017年7月18日、医師の日野原重明さんが旅立たれました。105歳。聖路加国際病院名誉院長をはじめ、とても多くの肩書があります。
「生涯現役」をモットーに最後まで精力的に活動を続け、数々の業績を残しました。
日野原先生はどのような人だったのか、驚きのエピソードとともに記したいと思います。
スーパーマンを地で行く人
私が日野原医師のことを初めて知ったのは、彼がすでに94歳の時でした。
私の母が、彼の講演会を聴きに行ったとのことでした。
しかし、当時もかなりの有名人だったので、講演会場は満席。別の会場でライブビューイングのような形で講演を聞いたそうです。
その講演の内容をちょっと伝え聞いて、当時驚きました。
「10年先の仕事まで予定が入っているのです」と!
(いやいや、10年後は104歳、それはムリでしょう)と私は思っていましたが、本当に達成していました。
他にもエピソードに驚きます。
・エレベータは使わない(しかも一段抜かし!)
・仕事で徹夜もバリバリ行う
・飛行機の移動時間も執筆を行い、1冊の本が完成してしまう
え?!94歳で!ちょっと聞いただけでも驚きの連続です。
日野原医師に興味を抱き、調べてみると、経歴・エピソード・著書があるある。
次で主なものを書きます。
経歴
1932年 京都帝国大学医学部に入学
1933年 大学在学中に結核にかかり休学
1941年 聖路加国際病院の内科医になる
1942年 結婚
1953年、国際基督教大学教授に就任
1970年 福岡での内科学会への途上によど号ハイジャック事件に遭遇
1974年 聖路加看護大学学長(第4代)に就任
1992年 聖路加国際病院院長に就任
1993年 勲二等瑞宝章を受章
2005年 文化勲章を授与される
エピソード
・東京大空襲に満足な医療が提供できなかった経験から、1992年、聖路加国際病院の新病棟に広いロビーや廊下を作った。
当時は「過剰投資だ」という批判もあったが、1995年にオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生。
現場から一番近かった総合病院であったため、院長だった日野原医師の判断で当日の外来を休診にし、被害者を無制限に受け入れた。
野戦病院のごとく患者が次々と運び込まれ、「広すぎる」廊下なども患者を治療する場所となった。
「想定外は起こる」という信念で作った広いスペースはサリン事件による被害を最低限に食い止めることに寄与した。
・よど号ハイジャック事件に遭遇
乗客が「ハイジャック」という言葉が理解できずにいたため、説明に窮する犯人に代わりマイクで「人質を取る乗っ取り」と説明。
「ハイジャックする人が説明できないのはおかしい」と語り、緊張する機内をなごませた。
赤軍派メンバーの1人で北朝鮮に亡命した若林盛亮容疑者(70)も「われわれの思い上がりを気付かせてくれた恩人。できれば会って直接、おわびしたかった」と弔意を示したという。(2017年7月18日産経新聞の取材より)
日本初のハイジャック事件に遭遇するとは!その時の行動も勇気がいることです。
ご無事で本当になによりでした。
業績
・「成人病」を1970年代から「習慣病」という言葉に変えることを提言
「生活習慣の改善によって予防し得る」という認識を人々の間に広く浸透させようとしました。
今ではすっかり「生活習慣病」が定着しています。
・日本で最初に「人間ドック」を開設した
早くから予防医学の重要性を説いていました。
著書
「生きかた上手」がベストセラー、「生きてるだけで100点満点 99歳のぼくから君たちへ」
他多数(本当に多いです)。
名言
動物は這い方、走り方を変えることはできない。
しかし、人間は生き方を変えることができる。
さいごに
いかがでしたか?
改めて日野原医師の超人ぶりに驚かされました。
数々の功績を残し、医学の枠をも超えて「生き方」の教えを説いた日野原医師。
最後は延命治療は行わず、最期までみずから「生き方」を示しました。
ご冥福をお祈りいたします。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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