心に響き続ける良作
こんにちは、はぴごろもです。
『凱旋門』という作品は1度だけではなく、2度3度、おそらく観れば観るほど作品を深くしみじみと味わえるのでは。そして観たあとも心に響き続ける作品なのでは、と思います。
抑圧された時代に翻弄されながらもどう生きるのか。状況は違えど、いつの時代でも普遍的なものなのかもしれません。
では、また少し書いていきたいと思います。
「今」と「未来」と「浅はかさ」
ラヴィック(轟悠)はドイツから逃れ亡命の地、パリで身を潜め暮らしていた。心に深い傷を負い将来もない。忌まわしい過去も、先の見えない未来も苦しいものだ。その中を生きていく「今」も。その日その日をただただ見送って暮らしているかのようだった。
それがジョアン(真彩希帆)との偶然の出会いにより一変する。恋に落ちた二人だが、落ち方がまったく異なる。
ラヴィックは「未来のない男」を自覚しているため「今」を躊躇する。一方ジョアンは「今」がなければ未来もないことを自覚している。ジョアンは自分が「浅はか」であることもわかっており、その上でラヴィックに「浅はか」さも必要と訴える。
彼女が自分を良くわかっているという点は実は深い。彼女が生きるためには真に必要とした要素であったのだろう。抑圧された中でも閉塞せず、心のままであることの大切さ。それはラヴィックの心の中にも欲していたものかもしれない。
なぜラヴィックはジョアンを愛したのか。
なぜラヴィックはジョアンを愛したのだろうか。
これまでのラヴィックにとって、ジョアンは決して理想的なタイプではなかっただろう。むしろ正反対と言ってもいい。
もっと知性的で思慮深く誠実な人、ラヴィックを困らせたりしないさらに美しい女性がいるのに。なぜ愛してしまったのは彼女なのか。自問を繰り返すが答えが出ず苦悩するラヴィック。
しかし、人を愛することができずほとんど心を亡くしていたラヴィックに再び生を与えたのはジョアンだったという事実がある。
ジョアンのラヴィックを求める眼差しはカンフル剤のようにラヴィックの心を打った。死んだ心をジョアンの「浅はかさ」が「今」を再び眩しく照らしたのだろう。
しかし愛すれば愛するほど心だけではなく、彼女が必要とする豪奢な生活を与えられない現実を突きつけられていく。俳優アンリ(彩風咲奈)にはできること。さらに優しく若々しくダンスもしなやかで脚もどこまでも長い。(癇癪持ちだけど)
愛するほどに現実を見なければならない苦しみはいかばかりだっただろうか。他の男とシェアしない、と言って帰ってしまうのも無理はない。自分の努力ではどうすることもできない、いたたまれない気持ちだ。
愛し、生きた。だから行く。
ラヴィックは愛したことで生を取り戻した。また偶然ながらもゲシュタポのシュナイダーに遭遇し復讐をなし遂げた。
愛し、復讐を終えたラヴィックの顔は今を生き抜いた表情であった。次に来るどんな運命をも受け入れる顔であった。
最後はアンリによって撃たれたジョアンの元へ。治療が不可能であることがわかると恋人としてジョアンの最期に寄り添う。
手が動かないジョアンに苦しみを取り除くため、医者としてできることを施した。ジョアンもまた生きた証がジョアンの最後わずかに動いた手に象徴されたように思う。慟哭は医者としての無力感と恋人としての喪失感、あるいは時代すべてにであっただろうか。
こんな時代でなかったらラヴィックは亡命者でもなく、外科部長として安定の生活をしていただろう。
だがそうであればジョアンに恋しなかったのではと思う。ジョアンもまたこの状況におかれたからラヴィックを愛したのではないか。
どちらも生きるのが辛い時に出会ったからこそ恋をした。そしてどちらも再びこの時代に「生きた」のだと思う。
パリに刹那に美しく咲いた愛の花。ボリスのラヴィックへのキスと抱擁、ジョアンの弔いを思うことにより、静かに二人の愛の幕が降りるのを感じた。
おわりに
すべて「今」個人的に感じたことを書かせて頂きましたが、また観たり時間の経過により感想が変わりそうなのがまたいい作品であるなあと思うところです。
もう少し書くかもしれませんが(キャストのこととか書いてない)、今回はこのあたりで失礼します。
お読みいただきありがとうございました。
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