いろいろな考えを言える自由
こんにちは、、現在平穏に暮らしていると忘れがちになりますが日本国籍を所有している、どこかに所属している、帰るところがある、というのは幸せなことだと思います。
たまたま日本で生まれたから日本の文化や思考・言語、あらゆる日本ならではのものが染みついています。それらはあまりにも基本的なものであり、普段は意識が薄くなりがちですが、知らず知らずのうちに助けられています。
国、故郷、家、恋人。帰るところがあるから歩み、時には思い切って羽ばたけることもあります。(「人間至る所に青山あり」的な場合もありますが)
安全な場所で暮らしていられることは当たり前のことではなく、尽力された先人たちや現在も奮闘されている方々、そして家族に感謝したいと思います。
当然他の考え方をする人もいますが、言うのは基本的に自由です(誹謗中傷、罵詈雑言は嫌だけど)。いろいろな意見を言える自由のある環境がありがたいものです。(これも当たり前になりがちですが)
とここまで独り言です。
というわけで今頃ですが感想を
さて、そんな前置きになりましたが、舞台『凱旋門』に登場する亡命者たちは国を追われた者たち。所属の根幹である「国」に帰ることができない。命の保証はもちろんない。まさに「亡命」。
その不安や絶望感は、現在安穏と暮らしている私には想像もつかないものです。ですが、その国には愛する家族やコミュニティ、社会的地位、数々の思い出などなどすべてが詰まっています。それらすべてを失うことになったのなら…
主人公ラヴィック(轟悠)は世が世ならドイツで外科部長になるような技術があり人格者であった。
しかし、友人や恋人、地位や平穏な日々、すべてを奪われてパリに身を潜めて暮らす。同じ亡命者であるボリス(望海風斗)やホテルの女主人(美穂圭子)、亡命仲間たちがいることが救いであり、辛い過去を持ちながらもなんとか生きることができた。
とはいえ、決してイキイキと生きているわけではなく、大人だから、外科部長になれるような人物だからなんとか長らえている状態かも。あまりにも辛い現実を経験したあと、すべての感覚や感情が麻痺していてもおかしくありません。
そんな中、偶然にも自分より打ちひしがれて彷徨う人に会う。ジョアン(真彩希帆)。何処へ行くでもなく、彼女の眼には何も映っていないようだ。
ジョアンは恋人を亡くしたばかりでショックと不安が押し寄せたのだろうか。若い彼女にとって受け入れられない現実。自ら現実から逃れようとしていた。彼女は愛がすべての拠り所であったのだろう。
ラヴィックとジョアンは対照的だ。
「一緒に歳をとりたいということ」
「生きてはいけないこと」
二人の愛の定義はまるで違う。
冷静に考えればラヴィックが正しいように思うが、この時代はもしかしたら冷静に考えることが正しいことではないかも。
明日が来ないのであれば。今しかないのであれば。「今」目の前にいる人を愛することが正しいことかもしれない。
愛することにより人生の歩を再び踏み出すことができたラヴィック。愛を得た彼は生を未来あるカップル、ハイメ(朝美絢)とユリア(彩みちる)に託し、凱旋門が見えなくなろうとも堂々と収容所へ行く道を選んだ。
こんな時代こんな境遇においても、彼はジョアンと出会うことで「今」を生きることが出来、彼の人生を歩むことができたのだろうと思う。
ジョアンは命を落としてしまった。しかし元々は死へ向かい当て所なく彷徨うところだった。ラヴィックに救われそこから愛し合うことができた。彼女もたしかに彼女らしく人生を「生きる」ことができたのではないだろうか。
パリの街角に生まれた儚い愛の行方を静かに見つめ、涙することができました。
おわりに
拠り所で言えばローゼンフェルト(永久輝せあ)のゴッホの絵もそうですね。ゴッホと共にあればどこにいてもいいぐらいのエネルギーを感じました。(一番恐れているのは家賃の滞納)。
またユダヤ人の子供もラヴィック先生と一緒に収容所に行けることに安堵していました。ホテルの女主人も最後に精一杯の美味しい手料理を振る舞い、送り出しました。
決して暗いだけでなく、避けられない運命に翻弄される中、葛藤し、もがきながらも希望を見い出し懸命に生きる人々がそこにいました。
良い作品でした。
DVDを見てから数週間経ってからのざっくりした感想でした。まだまだ思ったことがありましたが(キャストとか全然書けていない)、このあたりで失礼します。
お読みいただきありがとうございました。
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