パリの世界へ
こんばんは、はぴごろもです。
宝塚公式HPに「初日舞台映像(ロング)」が公開され、舞台の様子を垣間見ることができました。
私が『凱旋門』を観られるのはDVDが手に入るときでだいぶあとになります。
劇団の配役にあれこれ思い、今後を思っていろいろ書いてきましたが、今回はすべて置いておきます。
今ある、というか「今しかない」『凱旋門』という本来作品の持つエネルギーが感じにくくなってしまってはもったいない。
観劇された方の感想も多くあり、公式とともになんとなくこんな感じかしら、と想像して私が思ったことなどを書いてみようと思います。
そんな感じで違うところもあると思いますが、よろしければどうぞ~
ボリス像を想像する
ボリスは主人公ラヴィックの親友。ロシアからの亡命者。
望海さんによるとボリスは思っていたより「豪快な人」なのだそう。
元ロシアの近衛兵(=君主を警護する君主直属の軍人)ですのでエリートだったのでは?
それがどのような事情かわかりませんが、フランスに亡命。ドアマンの職に就く。前職の経験をちょっと活かせる職業か。
ドアマンは非常に多くの人に接する職業。
行き交う人々は国籍も様々、過去もそれぞれ。ボリスは人々の内面や事情も察することができる力があったかも。
彼は人生経験豊富であり、そして生きてゆく術(すべ)を知っている人なのでは。
「女は行きずりに限る」ポリシーも亡命者として不安定な自分が特定の「自分の女」に平穏な生活を保障することはできないことを知っているからか。
快楽さえ得られれば充分。ゴタゴタはご免だ。望んだところでこの時代にこの境遇、女に安定した幸せを与えることはできない。ならば、生半可に愛することの方が不誠実であり、お互いが不幸になりかねない。そこのところを割り切った女が無難だ。
ということでしょうか。ボリスの過去における豊富な経験から得た教訓だろうか。
ボリスの見つめる目を通すと二人の愛の物語が色濃く映し出されるのではないか。
ラヴィックとジョアン
異国の地においてもしっかり地に足ついているボリスとって心配なのはラヴィック。
祖国ドイツでは外科部長として活躍していたのにゲシュタポ(秘密警察)にラヴィックや家族に非道な仕打ちをされ、フランスに亡命。
仇討ちこそが彼の生き甲斐であるが、深い闇の中に落ちまいとして、かろうじて一本の蜘蛛の糸でぶら下がったような脆い精神状態だろうか。
その中でジョアンと鮮烈な出会いをする。
二度と戻ることはできない闇に、彼女が今まさに身を投じようとする時であった。
思わず声をかけることにより、絶望から一縷の希望の光が差す。
それが愛であった。
闇を血で塗り固める復讐心だけではない、「愛する」という生き方。
ジョアンの真っ直ぐでためらいのない、自分に向かう目。
ラヴィックが「憎しみ」でなんとかこの世に命を繋ぎとめていたことと相反し、ジョアンは「愛」によりこの世に生きようとした。
仲間と酒を飲むということ
ボリスたち亡命者は仲間たちと酒を飲み、歌い踊るシーンがあるそう。
どういったことだろうか。
それぞれ祖国を追われパリに流れ着いた。
パリも炎に包まれる日が近い。皆それぞれ明日をも知れない命であることを知っている。
また「酒を飲もうぜ!」とは言えないのではないか。
彼らにとってこれが「最後の晩餐」の宴であることが皆分かっていながらそれを口にしない。
悲しみは個々の胸に押し込め、歌い、踊る。
酒が抗えぬ運命の悲しみを流すのだ。涙は要らない。酒を浴びるように飲むことで涙の代わりをしてくれる。
酒さえあればいいのだ。
亡命した身でも、過酷な人生の一瞬でも、この世で「生きる喜び」を感じること。祖国で愛するものや信頼する仲間を失っても、こうして酒を飲み心を一つにできる仲間がいることの喜び。
たしかにこの世に生きて、喜びを味わい尽くせるひと時もあったのだと。
そんな意味があったのかもしれない。
おわりに
観劇をしていませんので断片的な情報から想像して書いてみました。大いに違っていましたらすみません。
観劇される方がどんなふうに感じるかはそれぞれですが、パリの世界にどっぷり浸かって観劇を楽しめること、そして胸に残る何かを感じられることを願っています。
お読みいただきありがとうございました!(^^)
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